伊予の西条歴史散策
ふるさと伊予西条の隅々まで歴史や文化の足跡を辿っています。


└天正の陣あれこれ

太古利(タゴリ)大明神由来/天正の陣あれこれ25



太古利(タゴリ)大明神由来



太古利.JPG



時は戦国の世、天正年間(1573〜92)

秀吉は天下を取るべく四国征伐軍を送った。


当地方でいう「天正の陣」である。


その時、秀吉軍に追われた地元武将の一人が、

この地の草むらに隠れ追手の過ぎゆくまで、

がでそうになるのを

必死のおもいで、こらえつつ潜んでいた。


しかし、遂に我慢しきれず咳こんでしまった。


その咳が追手の気付くところとなり、

あえなく討たれてしまう。


その後、この地の人々は、

討たれ果てた武将の霊をとむらう為お塚を建て、

その名を当地方の方言である咳を「たごる」と言うことから

太古利大明神」と称し供養した。


以来「太古利」さんにお参りすると、

風邪やゼンソク、気管支系の病が治るといふ霊験が高く、

今も参詣する人が絶えない。


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金子神社の碑/天正の陣あれこれ24



金子神社の碑


金子神社の碑.JPG



金子山の金子備後守元宅の祠に、

日々行列ができるほど

参拝者が大勢集まって来たという記録があります。


古文書には

金子社は、

寛政の頃、(1789〜1800)

威霊を顕わす事有りしに因りて、

信仰のもの小祠を建つ。


これを祭り、参詣群れをなす。


官よりこれを禁遏(キンアツ)ありて、

祠を毀(コボ)たしむ。


今は拝殿ばかり遺(ノコ)りて、山の半腹にあり。



それで当時の

慈眼寺の住職の方谷和尚は、

社名を「正一位秋葉護国金古神社」と改めて

神祇伯の手を経て

三河より分霊勧請をしました。


現在は金子山に

正一位秋葉護国金古神社」の碑があるだけです。

└天正の陣あれこれ

金子山の円墳/天正の陣あれこれ23



金子山の円墳



金子山の円墳.JPG



この円墳は、

慈眼寺から金子城趾

登って行く途中にあります。


説明板等ないので分かりませんが、

文化財に指定されても

いいと思われるような大きな円墳です。


戦後発掘しまして

銅鏡・鎖付耳飾り・玉類等が出土しました。


昭和40年ごろ

慈眼寺の住職さんから

出土したを見せて頂いたことがあります。


同じ大きさの鏡が2面ありまして、

いずれも真っ青に錆びついていて、

鏡の文字等わかりませんでした。

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片岡光綱公供養塔/天正の陣あれこれ22



片岡光綱公供養塔



片岡光綱公供養塔.jpg



片岡下総守光綱公供養塔は、

金子備後守元宅の墓の横にあります。


土佐より援軍で来て、

金子城の北谷口で討死しています。


片岡氏の発祥の地は、

上野国片岡郷

室町時代に土佐へ移住したようです。


片岡茂光の時、

長宗我部国親の妹と結婚し姻戚関係となり、

吾川・高岡・越知・黒岩・佐川・加茂・北地等の

広大な土地を有する領主となりました。


長宗我部元親の娘・美和

片岡下総守光綱公と結婚しており、

有力武将として活躍していましたが、

金子城の援軍を命ぜられ金子城で討死したのです。

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武者像/天正の陣あれこれ21



武者像


武者像.jpg



歴史と人情の町金栄

ここは豊な緑と数多くの史跡がある。


住む人々の生活の礎は、

戦国の昔、豊臣秀吉の四国制覇

攻撃軍を相手に郷土愛に燃えて戦い散った

多くの先祖の熱い心が地域の気質として根づいている。


天正13年(1585)7月3日

金子城は、備後守の弟・対馬守元春公が

僅か数百の兵で死守していた時、

滝の宮口より揚羽蝶の旗指物を靡かせて、

土佐の勇将・片岡光綱公が

300余名の軍勢を率いて馳せ参じてこられたが、

これは初手から死出の援軍に他ならなかった。


この援軍で金子勢は、起死回生の応戦を試み、

光綱公も勇猛果敢、敵将も驚く作戦で

奮迅の働きをみせたが、如何にせん多勢に無勢

7月7日尤も激しかった北谷口の戦いで、

敵弾に当たり惜しみて余る勇将は無念の戦死。


金子城も防戦空しく

7月14日遂に落城、この日朝の決戦で

花房新兵衛公他多数の将兵も討死した。


悲運の城将元春公は

落ち延び僧呂となって後にこの地に戻り、

死者の霊を弔う寺として建立に努めたのが

今の名刹慈眼寺と謂われている。


攻撃軍の総大将小早川隆景公が

守備軍の壮絶な戦い振りを褒め称えて

多くの死者の亡骸に合掌、

法衣姿で舞った弔いの舞から誕生した

当保存会が設立から10年を迎えるにあたり

校区を挙げての記念事業として、

特に関わりの深い高知県越知町有志からの

温かいご支援と地域の方々のご理解あるご協力、

そして慈眼寺からの用地提供に基づいて

当時、盟約遵守と郷土防衛と謂う大義の為、

この地で敢え無く果てた多くの勇者の鎮魂供養

並びにその威徳顕彰の碑であることを記す。


     平成15年11月吉日

     新居浜市金栄トンカカサン踊り保存会

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金子備後守元宅の墓碑/天正の陣あれこれ20



金子備後守元宅の墓碑



金子備後守元宅の墓碑.jpg



武蔵国入間郡金子郷の

金子十郎家忠は、

源平合戦に際し源頼朝に味方し、

一の谷・屋島の戦いに参加し功を立てたことにより、

武蔵・播磨・伊予の新居郷などの地頭に補せられた。


その後、建長年間に

金子広家の代に新居郷に移住し、

地名を金子と呼び、金子山頂に金子城を築き、

舘を山麓の現在の慈眼寺に構えて代々活躍したが、

天正13年(1585)7月

豊臣秀吉の四国攻めにより、小早川隆景の攻略を受け、

時の城主金子備後守元宅は、

居城を弟の対馬守に委ねて

新居・宇摩の諸将士を指揮して

7月17日西條野々市原に決戦ついに討死した。


里人たちは、

その武勇と徳をたたえ

野々市に小祠を建て、また、

慈眼寺内にも墓所を営み慰めている。



             新居浜市教育委員会
(蛇足)

今は滝の宮公園となり

城跡には、展望台が設置され、

桜の老木が沢山あります。

金子備後守元宅の大きな墓碑は、

城跡の真下にあります。


└天正の陣あれこれ

法華塔/天正の陣あれこれ19



法華塔


法華塔.JPG


この塔は、

金子城主備後守元宅公供養の為、

城代家老・伊藤嘉右衛門の

裔7代目伊藤嘉右衛門

天保5年 205回忌に建立し、

其の後 150年を経る400回忌に、

伊藤家一門末裔の有志に依り

土台を設立修復す。


     昭和60年5月吉日

└天正の陣あれこれ

真鍋家之記念碑/天正の陣あれこれ18



真鍋家之記念碑


真鍋家之記念碑.jpg



昔 天正の陣の時 

金子村庄屋 真鍋元一祖先 之を救出し 

当地に小堂を建て 此れを祀る。 


本尊は十一面観世音菩薩


この堂は 

金子村之庄屋の持庵であり 

真鍋家の菩提寺である

曹洞宗 慈眼寺の末寺である。


(蛇足)

ここより始まる

金子山八十八ケ所由来の碑が

金子城趾にありましたので記しておきます。


金子山八十八ケ所由来


第1番札所 観音堂より

金子城趾を経て慈眼寺に至る。

天保年間(1840年頃)建設されしが、

戦後の荒廃甚だしく、奉賛会を発起し復旧せり。


寄進者の善意を祈念す。  合掌  

   昭和56年6月   新居浜郷土史談会

└天正の陣あれこれ

「御茶屋」の由来/天正の陣あれこれ17



「御茶屋」の由来


此の付近の地名を「御茶屋」と呼ぶ。


その故は天正の昔、

城下の「御茶屋」の在りし処と伝えられている。


亦、近くに

お寝間という場所も今に残っている。


山麓からは良質の石清水が湧き出て、

往時から名水として茶の湯に用いられている。


       金子城主 

       金子備後守元宅公400回忌 

       昭和59年7月23日

(蛇足)

御茶屋谷は、天正の頃には、

今でいう歓楽街のような所であったと聞かされています。

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五輪塔群/天正の陣あれこれ16



五輪塔群


五輪塔群.JPG



五輪塔というのは、

大日如来を象徴的に表現したものである。


最初は、

成仏を祈願したものであつたが、

追々と死者の供養を願って

菩塔としても造られようになった。


当地の五輪塔群は、

材質も凝灰岩・砂岩・花崗岩等があり、

また梵字のあるものとないものがあり、

歴史的な時代の変化が偲ばれる。


金子氏累代の墓石群と推定されているが、

石材の運搬経路及び梵字の存在は

近世にさかのぼる歴史的事情を

物語っているのではなかろうか。


これらは、昭和20年代に

大平熊伊曾上田勘平の両氏によって

再掘されたものである。  


               新居浜教育委員会

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天正の陣の展示/天正の陣あれこれ15



天正の陣の展示



天正の陣の展示




八堂山考古歴史館で、

天正の陣の史跡などを紹介する展示が、

3月23日まで開かれております。


ここで最も興味をひいた展示品は、

天正の陣で使われたと思われる鎧兜です。


かなり朽ちて

ボロボロになっておりますが、

高尾城主高橋美濃守政輝の遺品だそうです。


-----------新聞記事より抜粋-------------

1585(天正13)年、

豊臣秀吉の命令を受けた毛利軍が

攻め込んできた「天正の陣」(四国征伐)の

経緯や史跡などを紹介する企画展が

西条市福武の市考古歴史館で開かれている。


・・・・・中略・・・・・


史跡紹介では、

土佐の長宗我部元親の支配下にあった

地元武将らが立てこもった

高峠城(西条市洲の内・中野)、

高尾城(同市氷見)や

多くの兵が討ち死にした

野々市原古戦場(同市野々市)について詳しく説明。


・・・・・中略・・・・・


入場無料  月曜休館

問い合わせは

同館=電話0897(55)0419 




└天正の陣あれこれ

石川備中守通清の墓/天正の陣あれこれ14



石川備中守通清の墓



石川備中守通清の墓.JPG



墓は神戸の保国寺の境内にあります。


石川備中守通清は、

宇摩・新居郡の旗頭・高外木城の最後の城主です。


天正の陣の前年

天正12年(1584)10月17日に

病没したと言われているが、

石川氏では先祖供養のときに殺された

という言い伝えが残っています。


この時、

子息の竹虎丸はまだ8歳、

奥方は菊姫と呼ばれていました。


天正13年(1585)7月、

戦雲急を告げ、

竹虎丸と菊姫は土佐へ逃れることになりました。


土佐街道の千町の入口の

桜峠(サクランドウ)に一行がさしかかった時に

高外木城は落城しました。


それから菊姫は、

加茂の中の池という部落で

筋を痛めて歩けなくなり、ここで没しております。


その場所には

筋神さま」という社が祀られています。


その後、

竹虎丸と保国寺の玉翁和尚は、

土佐の佐川まで逃れたようです。

└天正の陣あれこれ

丹民部のお社/天正の陣あれこれ13

丹民部のお社


丹民部.jpg




福武の西之河原の八堂山の麓に、

丹民部清光を祀るお社がありました。


丹民部清光は、天正の陣で

安芸の国の吹上六郎という者と戦い

刺し違えて戦死したようです。


その場所は橘の西泉(ニシズミ)で

民部塚があります。


古文書に

250年忌に

その遠祖周五郎という者より建てたる卒塔婆が残れり、

周五郎が家は福武村にあり
」とあります。


天正の陣後、

丹民部清光の一族は、

福武の西之河原に逃れてきたようです。


└天正の陣あれこれ

藤田大隅守俊忠の墓/天正の陣あれこれ12



藤田大隅守俊忠の墓


新居浜にある

慈眼寺の金子備後守元宅の墓の横に、

岡崎城主 藤田大隅守俊忠の墓があり、

説明板がありました。


金子備後守元宅と共に高尾城(西条市氷見)に行き

討ち死にしたと伝えられております。


故にこの所に墓を建てたものと思われます。


位牌は、「西條誌」に記されているように

慈眼寺にあります。


(注)岡崎城とは、

ここより約3.5Km東方の

国領川の国鉄々橋のすぐ東側の古城跡で

別名「郷山」と呼んでおります。


└天正の陣あれこれ

金子備後守元宅 と真鍋6人衆の墓/天正の陣あれこれ11



金子備後守元宅 と真鍋6人衆の墓


新居浜の慈眼寺

金子備後守元宅の墓があるので行ってきました。


そこには金子備後守元宅 と

真鍋6人衆の墓と書かれた説明板があり、

それには、中央は金子備後守元宅の墓で

他の基は真鍋6人衆の墓です。


・真鍋佐渡守家綱
・真鍋勘解由行綱
・真鍋左京佐兼考
・真鍋越後助政綱
・真鍋孫太郎兼綱(真鍋流の弓の名人)
・真鍋孫九郎亮綱 



全員高尾城(西条市氷見)の戦いで討ち死にしました。


真鍋家金子備後守元宅の母親の出里であります。


(蛇足)

金子氏亡き後、この地方の

大庄屋になった真鍋氏の大きな五輪塔の横に、

鉄製の階段があります。


これを登りつめた所に

金子備後守元宅の墓がありました。


└天正の陣あれこれ

慈眼寺の歴史2/天正の陣あれこれ10



慈眼寺の歴史2


名称は松樹林正法山 慈眼寺とし

宗派は曹洞宗です。


次に初代の関掩本徹和尚(対馬守元春)は、

当時の名僧でした。


109代の明正天皇より、御輪旨を賜り、

また、3世安禅思長和尚も賜っています。


故に本堂の屋根の棟に、

16弁菊の紋章を付ける事を許可されています。


尚現在の 慈眼寺は

天正の陣の400年を記念して、

平成4年に総て新しく建て替えました。


慈眼寺には

金子山古墳・金子城の戦い・別子銅山との関係

・その他の歴史があります。


平成15年10月吉日   正法山 慈眼寺


(蛇足)

慈眼寺の裏山には古墳がありまして、

そこからが出土しています。


└天正の陣あれこれ

天正の陣あれこれ9慈眼寺の歴史1



慈眼寺の歴史1


新居浜市の滝の宮公園の近くにある

慈眼寺に行ってきました。


この寺は金子備後守元宅

菩提寺であると言われています。


天正の陣の400年記念

すべて新しく建て替えられました。


特に庭園が奇麗です。


ここに慈眼寺の歴史の説明板がありましたので、

書き留めておきます。


慈眼寺の歴史は古く、

源平合戦の時、源氏に味方して戦った

関東武士で、金子十郎家忠が、

その功績によって伊予の国の新居郷と

兵庫の「いかるがの庄」の領地を与えられ、

約100年後の弘安6年(1283)に

金子頼広(家忠より5代目)が当地に来て

館を現在の慈眼寺の地に構えて、

山上に砦を築き金子城(別名・橘江城)といいました。


また、北側の山麓に菩提寺を建立し、

その後、応永13年(1406)には

立派な堂宇が再建されました。


当時の宗派は臨済宗

鎌倉の寿福寺派に属していました。


その後、天正13年(1585)に

豊臣秀吉の四国攻略が起こり金子城も落城して、

お寺も戦火に遇い焼失します。


当時、金子城を守備していた備後守の弟の対馬守元春は、

今治の大雄寺に逃れて行き自害しようとした時、

住職の宗虎和尚に止められ

お前は生きて僧侶となり、

この戦いで死んだ人達の霊を弔え
」と諭されます。


そして和尚の弟子となり修行の後、

和尚の紹介で現在の福島県いわき市平の

長源寺の卓眼和尚を訪ねて行き師事し、

修行の後に故郷の地に帰り、

戦いで生き残りの者や、遺族達と力を合わせて、

金子城の舘跡へ寺院を建立します。


時に慶長18年(1613)でした。


これが現在の 慈眼寺の始まりです。  −つづくー


└天正の陣あれこれ

金子藤次郎美親の業績/天正の陣あれこれ8



金子藤次郎美親(ヨシチカ)の業績



下島山の岡寺池の水は、

下島山の水田をうるおし、

その余り水が船屋の水田に使用されました。



この水量では不足するので、

船屋村庄屋・金子藤次郎美親が、

下島山の花免に池を掘り、

水路をつくり、水不足を解消しました。



今も新川と言って立派に使用されています。



この人の先祖は、

金子孫八郎家綱と云い、

天正の陣(1585)の最大の激戦地・野々市原の戦いで、

敵の囲いを破り、船屋に落ち延びてきた人です。



金子孫八郎家綱は、

郷土軍の総大将で、宇摩・新居連合軍の

盟主である金子備後守元宅の弟です。


└天正の陣あれこれ

白馬の地蔵/天正の陣あれこれ7



白馬の地蔵


白馬の地蔵.jpg



天正の陣で

白馬の武将がここで討ち死にしました。



それで

この近辺では、落馬や怪我が続出したのです。



村人たちは、相談して

白馬の武将の怒りを鎮めるため

地蔵を建てて供養すると、

その後は、災害がなくなったと言われています。



この地蔵さんと並んで

中山城主・一色但馬守の供養塔」があります。



江戸時代の古文書に

城跡・中山一か所、

これは、牛の角というところにあり、

城主を一色但馬守という
」とあります。



牛の角」の前の地名は「丑の津」となっております。



いつごろ「牛の角」になつたかは不明です。



「丑の津」とは

北東の方向の船着場」という意味だそうです。



昔はこのあたりまで

船がさかのぼって来たのでしよう。


└天正の陣あれこれ

高尾城落城/天正の陣あれこれ6



高尾城落城



隆影軍は、

天正13年7月5日

今治に上陸、唐子山に宿陣し、

そして周桑の平野を東に進み

象ケ森城を攻め落としました。



ここは

櫛部肥後守が守っていましたが、

宇野隼人正識弘と云う者、隆影軍に寝返って

櫛部肥後守の家臣・大沢忠兵衛以下10人の首を取り、

7月11日にその首を隆影に差し出しております。



そして、

5日のちの7月16日には、

宇野隼人正識弘はじめ妻や子が全部死んでおります。



これは

大沢家の恨みをかって襲撃されたと云われております。



そして

小松の剣山城の黒川は戦わずして降参し、

氷見の高尾城を攻撃しております。



7月14日から高尾城攻めがはじまり、

大激戦の後、

7月17日22時に高尾城が落城したのです。



秀吉の四国攻めで

最後まで戦ったのは

金子備後守元宅が指揮した高尾城だけでした。


<つづく>


└天正の陣あれこれ

豊臣秀吉の出陣命令/天正の陣あれこれ5



豊臣秀吉の出陣命令



一方の秀吉は、小早川隆景


この度、長宗我部元親、阿波・讃岐、

返上いたし人質を受け取っているが、

伊予の国、その方、お望みのことだから、

人質を返して伊予の国をあなたに進呈しましょう



と云って出陣命令を出しております。



それで、郷土軍は

個々の城で戦えば不利と考え、

氷見高尾城に主力を集中させ、

ここで決戦をしょうとしたのです。



人数は3千足らずと云われております。



攻めてきた小早川隆景の軍は

3万余騎と云われ、10分の1にも満たない兵力で

決戦をすることになったのです。


<つづく>


└天正の陣あれこれ

金子備後守元宅と長宗我部元親の盟約/天正の陣あれこれ4



金子備後守元宅と長宗我部元親の盟約



これを聞いた長宗我部元親

激怒して、戦う覚悟をきめたのです。



それで元親は東予の実力者

金子備後守元宅と堅い盟約を結ぶのです。



そして元親と元宅は、

たがいに使者をたてて、

土佐街道を往復し連絡をとったのです。



秀吉の軍が攻めてきたら、

直ぐに土佐から援軍を送ると云うような

緊密な連絡をとっていたのです。


<つづく>


└天正の陣あれこれ

小早川隆景の横槍/天正の陣あれこれ3



小早川隆景の横槍



待ったをかけたのは、小早川隆景でした。



どうしても伊予が欲しいと云うのです。



理由は伊予水軍が欲しかったのです。



そのために伊予の国が欲しかったのです。



秀吉も隆景を取り入れておかなければ、

今後の天下統一に支障をきたすと考え、

隆景に伊予の国をやる約束するのです。



そして、長宗我部元親には、

預かっていた人質は土佐に返してしまうのです。



そして伊予の国を差し出せと云ってきたのです。



<つづく>


└天正の陣あれこれ

天正の陣の原因/天正の陣あれこれ2



天正の陣の原因



天正の陣は、なぜ起こったのでしょうか。



それは、豊臣秀吉が約束を破ったからです。



約束とは、

阿波と讃岐はさし出せ、

そのかわり伊予と土佐は与える
」と云ってきたので、

やむをえんと云うことで、

長宗我部元親はしぶしぶ承知しました。



それで、長宗我部元親は

実子を豊臣秀吉のもとへ人質として送り

和を結んだのです。



ところが、それに待ったをかけた人がいたのです。


<つづく>


【愛媛県西条市加茂千町歴史探訪】


└天正の陣あれこれ

金子備後守元宅の最期/天正の陣あれこれ1



金子備後守元宅の最期



金子備後守元宅の最後は

色々と云われていますが、

私は野々市原であったとおもいます。



ここで600余の首実検をしましたが、

赤木蔵人忠房が討ち取った中に

金子備後守元宅の首があったようです。



今度高尾落去付金子備後守被討捕御粉骨令祝着、

仍太刀一腰馬一疋並種進上候、

猶志道左馬助可申候、恐々謹言

八月六日  輝元 花押

赤木蔵人殿  御陣所



の古文書が残っております。



野々市の千人塚

金子備後守元宅のがありますが、

討死の場所に埋葬したかどうかはわかりません。