└西條の案内板
瓶ケ森登山/西條の案内板12
<瓶ケ森登山>
瓶ケ森へは、
西の川ルートと東の川ルートがあります。
西の川ルートは、
鳥越を経て瓶壷に至る道です。
瓶壷は、
岩が丸く井戸のようにくり抜かれているので、
その名があり
瓶ケ森の名の由来となりました。
ここからは一面の笹原
「氷見二千石原」と呼ばれています。
東の川ルートは、
大宮橋を渡り東の川を経て、
幾島新道の急坂を登ると
シャクナゲの群生する尾根に着きます。
いろいろな原生林の中をしばらく登ると、
やがて眼前に笹原が広がってきます。
氷見二千石原です。
山頂では、
午後によく高知県側に雲が出て、
ブロッケンの妖怪現象が見られます。
現在は、
国道194号線から
旧寒風山トンネルを経て
瓶ケ森まで自動車で行けるので、
登山道は荒れていると聞いております。
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石鎚山登山/西條の案内板11
<石鎚山登山>
7月1日は
石鎚山(1982m)の「お山開き」です。
これから10日まで、
石鎚神社の信者が、
全国各地から集まり賑わいます。
挨拶は
「おのぼりさんかい」
「おくだりさんかい」と声をかけあい
皆白衣で登山します。
石鎚山は、
西日本の最高峰で、
日本七霊山の一つでもあり、
信仰の山として崇められてきました。
石鎚登山ロープーウエイの
山頂駅から約20分で成就社に着きます。
ここの門をくぐり
八丁坂を約20分下ると急な上がり坂となり
前社森・夜明峠を経て
一の鎖(33m)
二の鎖(65m)
三の鎖(68m)を登り切ると弥山山頂です。
天狗岳に行くには、
目の前の岩稜を約10分、
西日本の最高峰の大パロラマが広がっています。
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奥武丈瀧道/福武の案内板32
<奥武丈瀧道>
武丈公園の奥まった所の
八堂山の麓に
「奥武丈瀧道 是ヨリ瀧迄十丁余」
と書かれた花崗岩の道標があります。
これは、
・常心の田中大祐
・小川の安藤福次郎
・登道の文野熊次郎の三氏が
私財を投じて、つくったものです。
絶壁に近い山肌を、
雑木を切り開き、
発破を仕掛けての難工事、
三氏は、
毎日弁当持参で人夫をはげまして、
完成したと云われています。
この滝とは、
「津超の瀧」のことで、
市街地の近くで
これだけの瀧が見られるのは、珍しいと思います。
この道標の側面には、
三氏の名と
昭和13年8月と刻まれていました。
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船屋の金子氏
金子美親(ヨシチカ)の墓碑/船屋の金子氏7
<金子美親(ヨシチカ)の墓碑>
丸山の金子墓地の一角に
古い墓を集めて積んでいますが、
その中に、
日野胖(ユタカ)が碑文を書いた墓石があります。
日野胖は、
良之助・弘道・子廣・三楽ともいい、
武丈公園に頌徳碑があります。
また、西條誌で有名な
日野和照(ニコテル)は義兄になります。
墓石の碑文は
『 金子藤次郎美親の宗世々船屋村の
庄屋を勤む此村元来流末にして農民用水の乏しきを憂ふ
金子美親勤役中文化五辰歳(1808)官に請ひ
下島山村の内花免と云ふ所に泉を鑿ち
水を取天水を侍田地に至迄井手をつけ水を通す
又新川をほり悪水を海に注ぎ
一村長く旱魃水損の患なく稲作よく実る事は
偏に金子美親の勤功によるooooo(文字欠落)
及び諸向き精勤多起を予深く感じ
大略を記して後代に傳ふるものなり
安政四丁巳歳(1857)夏四月 日野胖 撰書 』
この碑文は、
金子藤次郎美親が、
水不足を解消するために、
花免に池を堀り、
水路を造った事業を称えたものです。
下島山から
船屋までの水路を新川と呼んでいます。
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札の辻2/西條の案内板10
<札の辻2>
江戸幕府お触れの西条藩高札の大きさは、
横は、222センチ、
縦の左右両端は、51.5センチ、
中央は、58センチ。
厚みは、5センチ。
重さは、25キロで、杉の一枚板です。
この高札は、
寛文10年(1670)2月、
紀州藩祖の徳川頼宣の次男松平頼純が
西条藩主しとてこられてから、
12年後の天和2年(1682)に
札の辻に掲げられました。
それ以来、
慶応4年(1868)3月、
明治政府が撤去を命じるまで、
187年間ものあいだ掲げられていたのでせす。
この高札は現在、
下島山の飯積神社に保管されていますが、
文字は風化していて読みづらいです。
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